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君の笑顔で、笑顔が生まれる

 小学生の頃、近所のフラワーパークへ行った。
 大切な幼馴染が亡くなってから笑顔を失ってしまった母に笑顔になって欲しくて、僕が行きたいと強請ったのだ。
 いつも聞き分けの良い僕の珍しい我儘に、母は暫し悩んでいた様子だったが、やがて頷き、簡単に化粧をして準備を整えてから、僕の手を握って家を出た。
 市内のフラワーパークは、徒歩で行くには程々に遠く、バスや電車を使うには近いといった具合で、その日は天気も良かったので徒歩で向かった。
 ちょうど気持ちの良いくらいの気温で、足も軽くなる。
 外の空気を思い切り吸い込むと、家の中の重い空気を忘れられる気がした。
「お母さん、深呼吸してみて!ね、ほら、気持ち良いでしょ!」
「梓馬……ええ、そうね」
 力無く微笑んだ母を見て、僕は今日は頑張って母を楽しませようと心に誓った。
「フラワーパークってあんまり行ったことないなあ、お母さんは?」
「昔は、毎週の様に足を運んでいたわね」
「毎週! お母さん、花が好きなんだね!」
 行きたいと言って良かった、これならきっと笑顔になってくれる、と思ったのも束の間、母の顔を見上げた僕は、失敗したのだと気が付いた。
「そうね、私というより、幼馴染が花が好きで……」
 母の何かを我慢している様な顔は、他人から見れば無表情の様だけれど、僕にはすぐにわかってしまうからだ。


 母は普段クールで格好良いけど、周りの人が気付かないくらいの感情や表情の変化が起きる瞬間があって、僕や父はそれによく気が付いてしまう。
 父は書道家で誰の前でも厳格な雰囲気を醸し出しているが、その実、天然な部分もある、少し不思議な人だ。
 母も父もふたりして不器用で、お互いに嫌ってはいない様だけれど、干渉しないというか、踏み込まないところがある。
 あまりにもふたりの仲が良い様に見えなくて、僕はもしかしたらふたりの子供じゃないんじゃないかとか、色んな事を想像したものだったけど、結婚した頃の話を聞いた時、その悩みは吹き飛んだ。
「私が彼女に結婚しようと言ったんだ、放っておけなくて」
「確かに貴方がそう言ったけど、放っておけないのは貴方の方よ。卵焼きを私に差し出しておいて、殻がじゃりじゃりだったことは一生忘れないわよ」
「あれは自信作だった、良い色だった」
「料理は色が全てじゃないのよ」
 それから軽い掛け合い漫才の様なものが続いたものだから、僕は思わず笑ってしまっていた。
 真面目な顔で不思議そうに、でも優しい眼差しで見返すふたりが両親で間違いないと、僕は安堵したものだった。

 母の幼馴染が亡くなった日。
 電話で知らせを受けた母は、急いで病院に向かった。
 それから帰ってくるなり部屋に篭ってずっと泣いていたけれど、自分から出てくるまで、父は決して声を掛けなかった。
 僕は心配で父とリビングに居たけれど、気が付くとソファーで眠ってしまっていた。
 物音がして薄く瞼を持ち上げると、母が部屋から出てきた様だった。
 泣いている間擦ってしまったのか、目元がしっかりと腫れていて痛々しい。
 父はペットボトルの水を差しだして、静かに言った。
「代わりにはなれないし、なるつもりもない」
「結婚する前からずっと同じことばかり言ってるわね、……ありがとう」
 僕にはその言葉の意味が何だかよく分からなかったけど、ふたりの間には深い信頼が見える気がして、父がいるなら安心だと、また眠りについた。
 翌日以降、母は仕事や家事は普段通りにこなしていたが、それ以外は部屋で泣いてばかりだった。
 母の部屋が涙で溢れてしまうんじゃないかと思うくらい、ただただ泣いていた。
 心配だと部屋の扉を見つめる僕に、父は、それほど大切な人を失ったのだから当たり前だ、と肩を叩いた。
 泣くことを我慢しては後でもっと苦しくなるから、泣きたいだけ泣かせてあげるべきだ、と。
 僕も最初はその意見に賛成だったのだが、そんな日がしばらく続いて、結局我慢が出来なくなってしまって、外に連れ出すことにしたのだった。

 
 場所選びを失敗してしまったと思ったけど、今更帰るなんて言い出せず、フラワーパークの門を潜る。
 観光客が大勢訪れる様な場所でも無いので、休日とはいえ、人出は程々だ。
 マスコットキャラクターも居なければ、名物スイーツも無い。
 でも、広い敷地内の手入れは充分にされていて、珍しい品種の花も丁寧に育てられているので、花の好きな人は足繫く通うのだと、道中、母から聞かされた。
 園内を半分ほど歩いた辺りで、小高い丘になっているところに東屋があって、母と木で出来たベンチに座った。
 花にはそんなに興味があった訳じゃなかったけど、いざじっくりと見てみると、色んな種類があって面白い。
 それに気乗りしていなかった様子の母も、僕が足を止める度、花について色々教えてくれたから、久々にたくさん話せたことも嬉しかった。
 僕はぐるりとフラワーパークを俯瞰で見渡してみる。
 ふと、まだ足を運んでいない方向に目を向けると、人の集まっているところがあった。
「お母さん、あれ何だろうね」
「何かイベントかしら……私はここで休んでいるから、梓馬、見て来てくれる?」
「え、でも、」
「風が気持ち良いし、少し一人でのんびりしているわ。何かあったらお母さんに手を振って。ここからなら見通しが良いし、梓馬が手を振ったら、すぐに走って迎えに行くから。お母さん目が良いし足も速いから、変だなと思ったら、梓馬が手を振らなくても走って行っちゃうけどね」
 母は僕に優しい目を向けているけど、ひとりにして欲しいのだと、何となく気が付いてしまった。
「……わかった! 僕が見て来て、お母さんに報告するね!」
 駆けだした僕は、途中で振り返った。
 母は僕を安心させる様に、無理して笑っている。
 また前を向いて、走って。
 目的の場所より少し手前で、僕は、通りの脇に咲いている花に気を取られた振りをして立ち止まった。
 この先にあるものを見て、戻って報告して、母は心から笑ってくれるだろうか。
 急に不安でどんどん胸がいっぱいになって、その場でしゃがみこみたくなってしまった。
 どうしよう、先に進むのも、戻るのも、怖い。
 僕は泣きたくなって、長い前髪の奥から、花を睨みつけるようにして見つめた。

「わあ、このお花、綺麗だね」
「え……?」
 気が付くと、隣には僕と同じ小学生くらいの女の子が立っていた。
 太陽みたいな暖かさを感じる色の髪をふたつに束ねた少女は、花を見ながらにこにこと笑っている。
「お花を見ていたんじゃないの?」
 パッとこちらを見た彼女と目が合った瞬間、強張っていた表情を見られるのが恥ずかしくて、元から長い前髪を更に手で下して、さりげなく瞳を隠した。
「えっと、うん、花を見てたんだ。綺麗だよね、この花」
 慌てて咄嗟に返したけれど、花を見ていなかったことは流石にばれてしまったらしく、彼女はふんわりと笑って話を変えてくれた。
「私ね、この後、あそこにあるステージに立つんだよ」
 彼女が送った視線の先には、僕が行こうとしていた人だかりがあった。
「ステージに? 何かのイベントでもあるの?」
「あのね、私、この市のフラワーガールに決まって、今日がそのお披露目の日なんだ」
 このフラワーパークをはじめ、市のイベント等でイメージガールとして活動するのが、フラワーガールらしい。
 彼女はそのフラワーガールに選ばれたということで、その発表イベントに参加するそうだ。
「そうなんだ、おめでとう」
「ありがとう!私、お花のプリンセスになりたくて、フラワーガールはその一歩目だと思ってるんだ」
 その言葉を聞いて、頭の中に、ある絵本の表紙が思い浮かんだ。
 母がずっと読み聞かせてくれていた、大好きな絵本だ。
「お花のプリンセスって、絵本の?」
「えっ、知ってるんだ! そうなの、私もあんな素敵な人になりたくて! でもあの絵本、周りに知ってる子がいなくてね……! びっくりしちゃった」
「僕は大好きだよ、あの絵本。 そうか、あんな人になれたら素敵だよね」
 強くて優しくて美しいお花のお姫様は、慈愛に満ちた微笑みを携えて、色んな困難に立ち向かう。
 あのお姫様を目指しているから、彼女もこんなに素敵に笑うのだろうか。
「どうしたら、大切な人を笑顔に出来るかな」
「え?」
 気付いたら、僕は隣に立つ彼女に問い掛けていた。
 彼女ならきっと答えてくれる気がしたからだ。
 彼女が僕の言葉を待ってくれていることに安心して、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「僕、笑顔にしたい人がいるんだ。ずっとそればかり考えていて、答えがわからなくて。でも、君の笑顔は、その、とっても素敵、だから……」
 言いながら恥ずかしくなってきてしまって、顔を俯けてしまう。
「君の笑顔を見て、僕、ちょっと元気出たんだ。だから、知りたい。どうしたら、人を元気に、笑顔に出来る、かな?」
突然そんなことを聞かれたって困るだろうな、と思ったけど、彼女はえへへ、と嬉しそうに笑ってから言った。
「……そっかあ、だったら、答えは簡単だよ!」
 簡単、と言われて思わず彼女の顔を見る。
 そんな簡単な訳がない、というのが表情に出てしまった気がしたけど、彼女はそれでも明るい表情で僕を見返した。
「自分が心からの笑顔でいること。貴方といられて幸せだよって、貴方が大好きだよって気持ちを込めて笑うの」
「大好き……」
「そうだよ、貴方が私を見て元気が出たって言ってくれた様にね。すぐには無理でも、いつかきっと、想いは届くと思うよ」
 にっこりと笑いかけてくれる彼女は、自信に満ちた眼差しを向け、僕に片手を差し出した。
 僕は一瞬躊躇ったけど、そっと同じように片手を出した。
 彼女はその手で握手をしたかと思うと、両手でぎゅっと手を握り込んできて、ぶんぶんと上下に手を振った。
「ちょっと、あはは、やめなよ!」
ふたりでしばらく手をぶんぶん振りながら笑っていると、彼女がはっと気が付いた様に手を離した。
「あ!そろそろ行かなきゃ!大切な人、笑顔に出来るといいね!」
 ステージも、よかったら観て行ってね!と手を振ってステージ脇に向かう彼女に、僕は控えめに手を振り返した。

 そこでようやく、僕は人だかりの存在を思い出した。
 彼女に声を掛けられてから、まるでその場にふたりきりの様な、凄く時間が経った様な気がしていたけど、実際はそんなに時間が経っていなかったみたいだ。
 小さなステージの前に並べられた観客席のベンチは、程々に埋まっている。
 僕一人だけならどこでも座れそうだなと思っていると、ふと最前列の真ん中が空いているのに気が付いた。
 イベントがもうすぐ始まります、とアナウンスが流れ、僕は慌てて、先程目についた席に座った。
 隣には小さい子供を連れた若い夫婦、反対側の隣にはハチマキを額に巻いて法被を着たお兄さんがいてビデオカメラをセッティングしている。
 それ以外にも色んな人達がいて、ステージ前は大人数とはいかないまでも賑やかではあった。
 何だか落ち着かずきょろきょろしていると、薄く流れていたBGMの音量が少し大きくなる。
 照明操作も特に無い、屋外の小さなステージに、しばらく音楽が鳴り、音量がまた少し下がった。
 司会の人とフラワーパークの園長が出てきて、簡単に挨拶を述べた後、それではフラワーガールの紹介です!と声が上がり、僕も周りの人達に合わせて拍手をする。
 笑顔で出てきたのは、花冠を頭に載せてシンプルだけど可愛らしいドレスを着た――さっきの女の子ひとりきりだった。
 てっきり何人かいるグループの中のひとりなのだと思っていた僕は驚いて、目を見開いた。
 彼女はぱたぱたとステージの真ん中まで走ってきて、ステージの上から客席を見渡して、僕の方を見ると、にこっと笑った。
 急に体温が上がった気がして、胸がばくばくする。
 こんな感覚は、初めてだ。
「では、自己紹介をどうぞ!」
「フラワーガールに選ばれました、片瀬歩美です!これから色んな市のイベントに出演していきますので、よろしくお願いします!」
 にこにこと笑う彼女が輝いて見えて、僕は胸が高鳴った。

 程なくしてお披露目のステージが終わり、僕は拍手が収まってからすぐに立ち上がった。
 母に伝えたいことが出来たからだ。
 来た道を全力で走って戻る。
 目にかかる前髪が邪魔で、走りながら手でどけると、視界が広がって、まるで今の心みたいに晴れた空が見えて、叫び出したくなった。
 息を切らして戻った僕に、母は驚きつつもどうだった?と問い掛け、僕は開口一番にこう言った。
「僕、王子様になる!」
「え? 王子様?」
「皆を笑顔にする、王子様になるんだ! お母さんのことも、僕がたくさん笑顔にしてみせるよ!」
 そう言って、僕は笑った。
 心からの想いと、願いを込めて。


 あれから、もう7年程経った。
 今ではアイドルの仕事をしている僕は、中学高校とアイドル学校で寮生活をしている為、あまり実家には頻繁に帰れなくなったけれど。
 久しぶりに実家に帰った日は、空いた時間が出来ると、地元のフラワーパークに来ている。
 あの頃の事を思い出しながら、ステージの前にある観客席の最前列、真ん中――あの日と同じ席に座った。
 当時よりもイベントの日は人が集まる様になったみたいだけれど、今日は何もイベント事は無いらしく、わざわざステージ前に座る人もいない。
 ぼんやりと誰も居ないステージを眺めていたら、急に影が差した。
 驚く間もなく、隣に誰かが座って、こちらに声を掛けてくる。
「何してるの?」
 声を聴いて驚いた。
「え、か、片瀬さん!」
 あの日と変わらない、いや、あの日よりずっと素敵になった笑顔で微笑む片瀬歩美が、そこにいた。 

 彼女がフラワーガールになってから、市のイベントは毎回大いに盛り上がった。
 オーディションは当時第一回と銘打っていたそうだが、市内外問わずあまりにも人気が出た為、それ以降も継続して片瀬さんがフラワーガールを務めている。
 ステージの脇や市内の掲示板にも、いつだって笑顔で花に囲まれたポスターが掲示されていて、ずっと身近な様で、遠い存在だった。
 彼女とは地元が同じで、今では通っているアイドル学校も同じだったりする。
 そんな僕が今物凄く驚いているのは何故かと言えば、女子部と男子部で分かれている学校の性質上、仕事でしか会えないから、というだけではない。
 あれから一度も当時の話をしたことは無い、それどころか二人きりで話すこと自体もほとんど無く。
 その上、当時の僕ときたら前髪は伸ばし放題で普通よりダサいくらいだったし、「王子様キャラ」として人気がある今とは見た目が全然異なっていた。
 話す機会があったとしても、同一人物だと知られるのは、今となっては恐ろしかったのだ。
 僕は、あの日以来、彼女の事がずっと好きだった。
 彼女の参加するイベントにも幾度となく足を運んでいたけれど、目立たない様にしていたし、接触は避けていたので会話をすることは無かった。
 本気で彼女の事が好きで、ファンとしてではなく、いつか一人の男として彼女に告白したいと思っていたからだった。
 それなのに、今、隣にいる彼女は僕に普通に話し掛けてきている。
 幻覚かと思ったけれど、こっそり軽くつねった手の甲の痛みが、夢じゃないことを僕に教えていた。
「黛くんも、今日オフだったんだね」
「あ、ああ、うん。片瀬さんも実家に帰ってたんだ、タイミング合う、ね……」
 そこまで言ってしまってから、ただの仕事仲間の癖に地元がこの辺りだと知っているんだ、と思われてしまうと気が付いて冷や汗をかいた。
「ご、ごめん、いや実家はどこかとか知らないけど! ああほら、あの掲示板に貼ってるポスターのフラワーガールって片瀬さんだよね、市のイメージキャラクターだし、その……!」
 焦って早口で話す僕に、彼女はきょとんとした表情で見返してから、やがてにこりと笑った。
「黛くん、昔ここで会ったことあるよね、もしかして忘れちゃった?」
「え、いや、その、それは……ち、違う人じゃ、ないかな……」
 正直、覚えていてくれて嬉しい。
 でもそれと同じくらい、気付かないで欲しかった。
 今の方が恰好良い筈だ、あの頃の事は思い出さないで欲しい。
 矛盾した気持ちのせいで、はっきりとした物言いが出来ずにいると、片瀬さんは片手のひとさし指を立ててズバリといった風に言った。
「私、中学一年生の頃、男子部のレッスンを見に行ったことがあるんだ。歌のレッスンの日にね、レコーディングブースの外からだから、黛くんや男子からは見えなかったと思うんだけど。その頃はまだ見た目も、あの頃とそんなに変わらなかったから、フラワーパークで会った男の子が『黛梓馬くん』で、うちの学園に通ってるって知ったの」
 そんなの、もう誤魔化しようが無い。
 がくりと肩を落とした僕は、観念した様に両手を上げた。
「知らない振りしようとして、ごめん。あの日ここで会った事は僕も覚えてるよ、ずっとね。中学2年になる頃から、髪型を変えたり、王子様キャラが整ってきたから、接点が無ければ分からないだろうと思っていたんだ」
 そうなんだね、隠したかったならごめんね、という彼女に、僕は首を振った。
「でも、見た目が印象違っていても、きっと気付いたと思うよ。あの日は私にとって特別な日だったから」
「特別? ……ああ、片瀬さんは、あの日が初めてのステージだったんだよね? 堂々としていて、凄かったな」
「そんなことないよ、その日は物凄く緊張してたもん」
 思い返してみたけれど、全然そんな様子は無かったから驚いた。
「緊張に強いタイプなのかな、そんな風には見えなかったよ」
「違うよ、足も震えてたんだよ、でもステージに出て行ったら、一番前にお兄ちゃんと黛くんが見えたから、笑顔になれたんだ。ふたりに勇気を貰ったの」
 お兄さんというのは心当たりがある。
 ステージを見ている時、僕の隣に座っていたハチマキと法被を身に着けていたお兄さんのことだ。
 当時は分からなかったけど、その後のいくつものステージで最前列に居て、ファンの間でもとても有名な存在。
 彼女もお兄さんの事は好きな様で、イベントでは特別扱いはしないものの、いつも嬉しそうにしている。
「お兄さんと僕、か……そうなんだ、勇気をあげられていたんだ、よかった」
「ありがとう。あの日の、私にとって初めてのステージを素敵なものにしてくれて」
 その言葉を聞いて、僕は胸がいっぱいになり何も言えなくなって、下を向いてただ小さく頷いた。
 顔を見なくてもその優しい声で、彼女が笑顔だと分かる。
 僕は、あの時の出来事を一方的に大切に想っているのだとばかり考えていたけれど、そうじゃなかった。
 彼女の夢への一歩のすぐ傍に、小さな花を咲かせてあげられたのだ。
 彼女は僕が頷いたのを確認して、安心した様に軽く息を吐いた。
「あとね、ずっと聞きたかったことがあるの。大切な人を笑顔にしたいって言っていたけど、その人を笑顔に出来た?」
 それは、僕が彼女にあの時問いかけた言葉だった。
 そんなことまで覚えていてくれたんだな、と嬉しくなるのと同時に、母の顔を思い浮かべる。
 あの後、母は少しずつではあるが、また以前みたいに笑う様になった。
「……少しは。でもまだまだ、かな。もっと笑顔にしてあげたいって思うよ」
 僕の答えを聞いて、彼女はどこか満足した様に頷いた。
「そっかあ。私も黛くんも、まだまだ頑張らなきゃだね」
 彼女の夢、僕の夢、どちらの夢への道も、まだまだこの先も続いていく。
「そうだね。君がお花のプリンセスになれる様に、僕もみんなを笑顔に出来る王子様になれる様に、お互い頑張っていこう」
 いつか君だけの王子様になりたいんだ、という気持ちは、まだ隠して。
 あの時みたいに、手を上下にぶんぶん振りながら握手をして、僕と彼女は笑い合った。


end.

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